今までに頂いた有難い言葉D 2007/11/16
けろさん、はじめまして。

>いろいろ考えて、いろいろ悩んで、いろいろな気持ちを教えてもらって、いろいろな人に支えてもらえて、自分はそんなに「不幸じゃない」とやっと思えるようになってきました。

自分もそうです。
「悲しむ」とか「考える」ことは必要なのだと思います。
自分で悲しまなければ、亡くなった大切な人との絆の太さを測ることも出来ません。
自分で考えなければ、自分がどうなっていけばよいのかわかりません。
そのとき必ず、必要な出会いがあるんだと思います。
人との出会いもそうですし、本、ウエブサイトなんかも。

「自分はそんなに不幸じゃない」と思うまでって、必ず紆余曲折ありますよね。

以前このコミュの副管理人さんがこう言ってました。

---------引用---------
いつまでも不幸でいる人っていうのは幸せを感じるのが怖いんだと思う。
まるでそれが、大事な人への愛の裏切り行為みたいに感じてしまってるんだと思う。

生は幸せであり、死は最大の不幸。
やりたいことを死によって中断させられたカワイソウな・・
自分が笑うことはその死者の「不幸」に同感してない気持ちになるみたい。
いつも不幸でいることが、悲しんで幸せなど望めない状態でいることが
いなくなった人への愛の表現という潜在意識に苦しめられているんだと思う

最初はおもった。
「こんなおいしいもの、もう悠はたべられないんだ」
「こんな綺麗な景色、もう悠はみれないんだ」
もうそうすることが叶わない弟へのことを思ったら、
自分がそれを味わい楽しむなんてこととてもできない。

そんな感じだった。
今は、一緒に楽しんで、味わってること、わかるから
遠慮しない(笑)

もし故人のために、あたしがそれらを我慢したら、きっと嘆くな。あたしなら嘆く。
臭い表現すれば、死者からの無償の無限の愛ってのをいつでも感じていられるのはすごい幸せだ。

ずっと不幸に呪縛されてる人は、
故人からの言葉に耳を塞いでるみたいにみえてしまうの。

目の前に姿がないからこそ、ありのままが見える
その姿は笑顔なんだよなあ
-------ここまで-------

コミュの前書きに「自分を肯定できなくなるのが不幸です」と書きましたが、
それは
「自分が笑うことがその死者の不幸に同感してない気持ちになる」ことで、
そのため「いなくなった人への愛の表現という潜在意識に苦しめられ」ると言うことなのだと思います。

でも自分と亡くなった人の間には幸せな時が確かにあったわけですし、
あの時あの場所にいる自分とその人は泣いてなど居ません。
あの時あの場所を想えば、自分もその人も'決して不幸では無いんですよね

私はこのコメント頂いた方を密かに勝手に尊敬してます。
ホームページ作ろうと思ったのもこの方の影響が強いです。
アクマで密かにです^^


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